MASANOBU SATO
OoooO Editor
佐藤 匡将(さとう まさのぶ) 1987/08/17 Type O
参加型フリーマガジン[OoooO] 編集・発行人。

www.facebook.com/ooooo.zine
www.ooooo-camera.com

2つ上の兄は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が映画の中で一番好き。タイムマシンのデロリアンよりも空中に浮かぶスケートボード(ホバーボート)に興味があるようだ。それが出てくるのはPART2で、マーティ・マクフライが1985年(現在)から2015年(未来)に行く話だ。

カラーページで図とイラストをたくさん使い解説してくれる科学雑誌(タイムトラベル特集)を読み返してみても理論上可能であるということ以上はよくわからない。なんらかの装置が発明されたとしても、一体どのように使用するべきなのか倫理的な問題が解決できなければ実用は不可能に違いない。

科学の力に頼らずとも偶然、事故のようなカタチで未来や過去に行ってしまうのはどうだろう。例えば『リプレイ』(ケン・グリムウッド)という作品は43歳の主人公が死に、目が覚めると記憶を残したまま18歳の大学生に戻っているという話らしい。2030年に読む(予定)。

名古屋シネマテークで上映中のホン・サンス監督作『自由が丘で』に登場するモリは一冊の本を持っていた。その名も『時間』(吉田健一)。読んでる本の内容を教えてくれとカフェの店員に言われ、「過去、現在、未来、時間が流れているという概念は人間がつくり出したもので、必ずしもその時間の中で生きる必要はないんだ。」というような説明をしていた。疑問に思ったことがなかった。時間が流れていなければ、進んだり戻ったりという話にも関係してきそう。

面白そう。読んでみよっと。




jgk.jpg
Stalker.jpg

店内の暖房がありがたく感じるこの季節。

暑い日差しのなかみてまわった愛知トリエンナーレが懐かしい。

納屋橋で展示をしていた名和晃平の作品を体験したとき、タルコフスキーの映画『ストーカー』にでてくるゾーンに足を踏み入れた気分になった。
願いの叶う部屋はどこだ?

光が遮断され薄暗い広いスペース。ひんやりと涼しく足下には砂利の気持ちよい感触。目の前にはうっすらと照らされた無数の大きな白い泡の固まりが山のように盛り上がり微かに聞こえる「しゅわしゅわ」という音。泡は絶えず生成され増え続けているのだろう。

未知の場所であるゾーンは立ち入り禁止区域であり軍が警備をしている。しかし、その中には足を踏み入れた者の願いを叶えてくれる部屋があるという。侵入できたとしてもゾーン全体が罠のようなもので部屋までたどり着くことは不可能だとされていた。ストーカー(密猟者)という部屋までの案内人を除けば。

アーティストが取り組む課題を目の当たりにしたときに生まれる発見や共感とは無関係に、このような個人的な体験が想起されるようなものがほめられるのだ。もしくは、作品がもつテーマは横に放置され投げかけられた疑問はスルリ体を通り抜け、口当たりが良かったりインパクトがあったりするものを受け入れてしまうのだ。

映画のなかではこんなエピソードが紹介される。部屋にたどり着いた1人のストーカーは死んだ弟が生き返ることを望んだ。だが帰った男を待っていたのは札束の山だった。本当に望んだものがそれだった事実に、その男は自殺した。

アーティストは一体なにを望み作品をつくるのか。

12月24日まで豊田市美術館で行われている「反重力」。11月30日にタルコフスキー監督作「惑星ソラリス」が関連企画として上映される。

展示をみに行くとき未知なるなにかであることを期待する。作品が私にとっての案内人であることを望む。アーティストの作品が社会とどのように繋がっているのか、社会をどのようにみているのか、教えて欲しいんだ。



<ストーカー / タルコフスキー>
 

<惑星ソラリス / タルコフスキー>
ぽつーんと黒い映像が映し出された画面を眺めている。
もう映画は始まってるのか?
暗闇からは確かに物音が聞こえる。

まだ黒い画面だぞ?と不安に思う頃、
映写機から漏れるカタカタカタ
という音がだんだんと大きくなって聞こえてくる。
すると1人の青年がパッと現れ
画面の外にいるわたし(たち)に向かって話しかける。


「なにしてんだよ。
映画館の暗闇のなかでそうやって腰掛けてたって何も始まんないよ。」


あれ?それってまさに、いまのわたし。
現行犯逮捕。
言い逃れはできない。

この映画のタイトルは『書を捨てよ、町に出よう』
寺山修司が1971年に製作した代表作だ。

家で DVDを借りて観ていても
なんとも思わないシーンに違いない。
テレビの前では他のことをやってしまうだろうし
ぽけーっと早送りをしてしまうかもしれない。
一方、館内では映画の冒頭に集中しているだろうし
黒い画面をずーっと観る他にやることはない。

いつだってわたしは待っていた。
この映画に限らず映画館のスクリーンの前で。
何かが始まるのを。

42年前のこの映画を
映画館で観ることなんて無理だと諦めていたが
来月、その夢が叶う。

6月1日〜7日の間、
名古屋シネマテークにて『寺山修司◎映像詩展』が行なわれる。
没後30年記念。
これを逃せばまた10年後。


 ◎映画『書を捨てよ、町へ出よう』冒頭


青年が立ち上がりゆらり画面に近づきながら
画面の外にいる私たちにたばこを突きつけながらいきりたつ。
冒頭で一番好きなシーンだ。


「まるで自分が2、3人切ったような顔をして
肩をいからせて映画館を出て行ったお前!
そうお前よ!
あんときお前に何が起こったんだ。
え"ぇ!なにが!!」


寺山修司は肩をいからせて映画館を出て行く理由をこう話す。

「俳優というのは代わりの人間としている。日常のイライラを自分の代わりに晴らしてくれる人間がいることによって、日常のイライラを爆発させるエネルギーを失ってしまう。日常の暴力をある意味で制御する装置として、社会から認可を得て成り立ってる。代わりの人間のドラマを見て楽しんでいるが、実際には自分のドラマを要求している。自分の人生のなかにもドラマチックな出来事、過激な出来事を期待しているけれど、実際の生活のなかでは何も起こらない。だから劇場に行って身代わりのドラマを求める。俳優がいる間は、自分自身のドラマを持たなくてもいい。俳優としてではなく、隣人として劇的シチュエーションをつくるのが大事だと思っている」

青年は4分間カットなしの長回しで話し続ける。
途中でかんでもおかまいなし。
その場で本当に人がしゃっべてるみたい。
映画の途中で映写室に向かって登場人物が「客電つけてください!」
というシーンがあって寺山修司の意図を理解している映画館では
本当に客電が点いたらしい。

映画のなかの出来事が現実と繋がっているように感じられる。
いくらDVDで観ても伝わらない。
体験したことのない映画体験が待っているはずだと
いまからワクワクしている。
ちょー楽しみ。


◎寺山修司:演劇&映画装置について

週刊少年ジャンプで休載中である「HUNTER×HUNTER」の連載が再会されたくらい嬉しいニュースがある。VICE MAGAZINEが「vice.com Japan」としてWEB上で4ヶ月も前に復活していたのだ。


l.jpg
アメリカン・アパレルで買い物をしたとき店員さんにもらったのが初めての出会いだった。それはPHOTO ISSUEで表紙にはテリー・リチャードソンの写真が使われていた。このとき初めてテリーを知った。たしかハーモニー・コリンを知ったのもこの雑誌がきっかけだった。あのときVICEをもらわなければ私の人生は変わっていただろう。今でも大切に保管している私とは違い、直ぐさまそれを鍋敷きに使用していた兄。彼の方がVICE MAGAZINEの精神を理解していたように今では思う。週刊少年ジャンプまでとは言わないけれど、世界中のよい子はみんなこの雑誌を読んでいたはずだ。


・『ヘロイン ラブストーリー』
メモ:映画「トレインスポッティング」が好きなら少々過激だが大丈夫。
 


・『ドラッグ・クイーンの素顔』
メモ:情熱大陸に匹敵する情熱がここにあります。
名古屋シネマテークで1月18日まで上映されている映画「ニュータウンの青春」の副題には『さよならだけが人生だ、いやマジで』と書いてある。

newtownnoseishun.jpeg
『さよならだけが人生だ』というのは、井伏鱒二(いぶせますじ)が「勧酒」という漢詩の最後の句を訳したもの。

勘酒    (酒を勧む)
勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵<きんくつし>)
満酌不須辞 (満酌辞するを須<もち>いず)
花發多風雨 (花發<ひら>けば風雨多く)
人生足別離 (人生別離足る)

井伏鱒二は以下のように訳したのだ。

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

花に嵐のたとえっていうのは、やっと花が咲いたのに嵐で散ってしまうこともある、というような具合なので、ようやく腹を割って話せるほどに仲良くなりはじめたかと思えばもうお別れか、という感じだと思う。

この『さよならだけが人生だ』という言葉に『いやマジで』をつけた監督の感性に憧れた。私はビビビときて、ちょーかっこいいと思った。

死を忘れるな!     (メメントモリ)
今日を生きろ!     (カルペディエム)
この時を大いに楽しめ! (さよならだけが人生だ)

上のふたつはピンとこないから「そんなの知ってるし」ってかんじなのに「さよならだけが人生だ」ってのはなんだかしっくりときて受け入れられるなー、いいなー、好きだなーっと考えていたところに森岡龍の『いやマジで』がきた。

映画の素晴らしさは「ニュータウンの青春」公式ホームページに掲載されている鈴木沓子のレビューを読んでくださればおわかり頂けるだろう。

森岡龍監督!私の人生はこの映画を観たことでちょー豊かになりましたよ、いやマジで。ありがとう!



<追記1>
『さよならだけが人生だ』という言葉だけではそのまんまぱっくてるし、『さよならだけが人生だ』だけで使うのは恥ずかしかったからその恥ずかしさを和らげるために『いや、マジで』をつけたんだ、と名古屋シネマテークの舞台挨拶で監督は言っていた。『さよならだけが人生だ』という言葉をどこで手に入れたのかという質問には、この言葉が好きで『花に嵐の映画もあるさ』という著書まで出している川島雄三監督が好きでそこから知ったのだと言っていた。そのため井伏鱒二は後から知ったのだそうだ。

<追記2>
私が好きな寺山修司は『さよならだけが人生ならば』という詩で「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」と言っている。以下にその詩を載せておく。

『さよならだけが人生ならば』

さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。

1  2  3  4  5  

Now Loading...