MASANOBU SATO
OoooO Editor
佐藤 匡将(さとう まさのぶ) 1987/08/17 Type O
参加型フリーマガジン[OoooO] 編集・発行人。

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2012年6月アーカイブ

beru.jpegのサムネール画像
ベルフラワーのチラシにはこうある。「もうダメだ、女は信じられない ― 。」裏面にはさらにもう一言。「焼き殺したいほど、愛していた。」と。

『映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで』『〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀』『トラウマ映画館』などの著書を出している映画評論家である町山智浩はこのようなコメントを寄せていた。「マッドマックス2の世界を待ち望んで戦闘マシーンを作る無職のボンクラ・・・・・・って他人事に思えん!切ない恋が暴走するバイオレンスなカオス!それを受け止める友情に泣け!」

いざみてみると、なんてことはない、なんてことはないなんてもんじゃない。カルト映画だよこれ。これはカルト映画だ。これをカルト映画と言うのだ。(佐藤匡将)

今までは、上記に挙げたような書籍をもってして既にカルト映画とある種、認定された作品をDVDを借りてきては鑑賞していた。ただ今回は違う。スクリーンでリアルタイムで上映されているカルト映画に出会ったのだ。

そもそもカルト映画とはどういう定義付けがなされているのか?カルト映画ってなに?ウィキペディアによるとこうだ。「ある種のジャンル・テーマ・モチーフ・演出方法等による分類方法ではなく、その作品が"特定の観客にどのように受け入れられているか"、という現象面によって分類されるべき映画である。当然、厳密な分類は期待できず、また、定義自体が変わらなくても時代や社会によって、その外延は変化する。 ある映画がカルト映画として成立していく条件は、特定の観客がその映画をどう受け止めるか、その映画に対しどのような関係を築いていくかに依っている(商業的な成績は関係ないが、一般に「狭く深い熱烈なファンをもつ作品」であることから、あまり成功してはいないことが多い)。」

つまり上映されたばかりのこの作品をカルト映画だと言ってしまうのは可笑しいことになるのだが、これはカルト映画に違いない!と私は思っている。観賞後の私といえば、呆れて愕然とし、真剣にこの映画を制作した方々に敬意を込めて拍手をしながらもくだらなさに戦慄した。そんな体験ができた。







beru.jpegのサムネール画像
ベルフラワーのチラシにはこうある。「もうダメだ、女は信じられない ― 。」裏面にはさらにもう一言。「焼き殺したいほど、愛していた。」と。

『映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで』『〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀』『トラウマ映画館』などの著書を出している映画評論家である町山智浩はこのようなコメントを寄せていた。「マッドマックス2の世界を待ち望んで戦闘マシーンを作る無職のボンクラ・・・・・・って他人事に思えん!切ない恋が暴走するバイオレンスなカオス!それを受け止める友情に泣け!」

いざみてみると、なんてことはない、なんてことはないなんてもんじゃない。カルト映画だよこれ。これはカルト映画だ。これをカルト映画と言うのだ。(佐藤匡将)

今までは、上記に挙げたような書籍をもってして既にカルト映画とある種、認定された作品をDVDを借りてきては鑑賞していた。ただ今回は違う。スクリーンでリアルタイムで上映されているカルト映画に出会ったのだ。

そもそもカルト映画とはどういう定義付けがなされているのか?カルト映画ってなに?ウィキペディアによるとこうだ。「ある種のジャンル・テーマ・モチーフ・演出方法等による分類方法ではなく、その作品が"特定の観客にどのように受け入れられているか"、という現象面によって分類されるべき映画である。当然、厳密な分類は期待できず、また、定義自体が変わらなくても時代や社会によって、その外延は変化する。 ある映画がカルト映画として成立していく条件は、特定の観客がその映画をどう受け止めるか、その映画に対しどのような関係を築いていくかに依っている(商業的な成績は関係ないが、一般に「狭く深い熱烈なファンをもつ作品」であることから、あまり成功してはいないことが多い)。」

つまり上映されたばかりのこの作品をカルト映画だと言ってしまうのは可笑しいことになるのだが、これはカルト映画に違いない!と私は思っている。観賞後の私といえば、呆れて愕然とし、真剣にこの映画を制作した方々に敬意を込めて拍手をしながらもくだらなさに戦慄した。そんな体験ができた。







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デマンドは主に政治的、社会的事件が起きた現場の風景を、写真をもとに厚紙で精巧に再現し、それを撮影します(展覧会概要より抜粋)。展示作品数30点の内4点は映像作品。そして、19点はサイズ180×200オーバーの大きく引き延ばされた写真作品であった(最大で300×429.4、最小で52×56.5)。大きいが故に細部までじっくりと見ることができるのだが、画面に登場するもの全てが紙だとわかっていても、見ているものが紙だということに現実味がない。そして、強弱の無いのっぺりとした印象を受けながらも、不自然であると感じられてしまう画面に広がるおかしな様子に違和感が残る。

どうしてあんなに大きなサイズで展示されていたのか、気になり調べてみると、模型は全て原寸大で制作され撮影されているものだということがわかった。それならば、作品サイズも原寸大に近い大きさまで引き伸ばし展示されていなければ変である。展示されるものも原寸大でなければ、紙で模型をつくる意味すらも無くなるように思えるからだ。原寸大で模型をつくり、原寸大で作品を展示する。そこに広がる世界はどこにも無い世界で、現実味と言うものが一切感じられない。作品のモデルとなる政治的、社会的事件が起きた現場の風景を扱うことと、私が感じるこの気持ちは関係していないとは思えない。世の中で起きているあらゆる事件は事件と呼ばれるのだから既に起きてしまったことになる(※ 事件には大小様々ある。転んだことも小さな事件だとして捉えることができる)。事件が起きた場所には、その時の記憶が残る。しかし、その事件が起きた日から寝て覚めればまた別の事件が起きている。個人が全ての事件を記憶することは不可能だろうし、自分にとって関心の無い事件はその日のうちにでもすぐに忘れていくだろう。ただ少なくとも、事件が起きたという事実をその事件が起きた場所くらいは覚えているはずだ。しかしその場所を紙で制作してしまうことで、その場所で事件が起きたのだという現実味は一切なくなる。紙で制作された場所は事件の記憶をもっていないからだ。

記憶をもたない場所を原寸大の大きさで制作する。それを撮影して原寸大まで引き延ばし作品にされたものは、タイトルでその場所(事柄)の名前(事実)が記され、文章でどのような事件が起きた場所であるのかが示される。事件が起きたとは思えないのに事件が起きた場所として提示される。その作品を制作する行程はわざと鮮明な色を抜いていくようにも感じらる。

特別な記憶をもった場所さえも、その特別な場所を認識する人以外にはなんてことのない平凡な場所にうつる。現実にその場所に記憶が残っていたのだとしても、事実として(名前をもって)その場所が、どのよう場所であるのかを提示されなければ気づくことがができない。この展覧会では、一度目は解説を見ないで作品を鑑賞するようにと指示がある。作品の横に付いているはずのキャプションは、展示された作品から信じられないほど離れた場所に設置されており、とても見にくく下手をすると探せない。一度作品だけをみた来場者は、説明文を参照しながらもう一度作品をみることになる。一度目と二度目で作品に写る場所は、どのように違って見えるのだろうか。写真を見る度に、場所が記憶すること、人が記憶すること、を考えてしまいそうだ。



Control Room,2011.jpeg
<制御室> 2011年

名古屋シネマテークにて上映予定の気になる映画


☆『死刑弁護人』6月30日(土)〜7月20日(金)
一言メモ:社会から悪者扱いされている安田弁護士を映画(ドキュメンタリー)の編集は、悪者としてみせるのか正義としてみせるのか注目したい。
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☆『木村栄文レトロスペクティブ』7月7日(土)〜7月13日(金)
一言メモ:木村栄文のことを知らないため、みる!
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☆『ムサン日記 ~白い犬』7月14日(土)〜7月27日(金)
一言メモ:これは必ずみる!
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『日本の「美術史」と、森村による「私(わたくし)美術史」が交差する、新たな視点からの美術史入門、それが"モリエンナーレ"です。』と説明にはある。

私(わたくし)美術史?

美術館で作品が展示されているのは当たり前のことだけど、森村が美術家を意識する前の学生時代に描いた作品を含め、高校、大学時代に落選した作品、何処にも出さずに眠っていた作品が堂々と美術館に展示され、その横には当時その絵を描くにあたって影響を受け真似た作品(本物もあればコピーもある)が並ぶ。

本来ならあり得るはずも無いこの展示の風景。いかに真似て、学んできたのか、展示をみればその当時の美術史と森村が抱える美術への関心の方向性がハッキリと見える。その当時の作品に対して森村のコメントがキャプションと共に読むことができ、話し言葉で実際に解説してもらえているような親近感がもてた。以下のように書かれたコメントがあった。「ギャラリーで展示していたら学芸員から連絡があり、後日待ち合わせてお話をすることに。バッグには今まで製作した作品をまとめたポートフォリオを持参。学芸員の人から連絡があるなんて初めての出来事で胸が高まる。実際に会って話を聞くと、美術館のチラシのデザインの依頼であった。結局、最後までポートフォリオをみせることはできなかった。」

どの段階で美術家と呼び得るのか?社会はどうすれば美術家として迎え入れるのか。展示されている作品の多くは、一般にデビュー作とされている「肖像 ゴッホ」に至までの作品が多い。美術家と認められていない頃に制作した作品ということになるのか?作品によってこそのみ美術家は美術家として認めてもらえるのか?作品はどうすれば作品となって社会と繋がることができるのか?ギャラリーに所属してデヴューをしても作品によっては売れないものもある。

これが野球選手の話なら頭を抱えることはない。ただ、2軍か1軍かで社会の受け入れ方は変わるのだろうが、2軍であろうと球団に選手として登録さえされていれば紛れも無く野球選手だ。では、美術家の1軍とは?おそらくそれは、美術館や有名なギャラリー、大きなアートイベントに招待されるような美術家を指すことになるだろう。2軍は売り出し中の若手の美術家(若手といっても年齢は関係ない)。それ以外は、野球をこよなく愛する草野球バカに相当するのか?

この展示のあいさつで森村は以下のようなことをいっている。「こんな私でも美術館というような立派な場所で展示をすることができるのだから、美術家を目指すみんなも諦めずに挑戦し続けて欲しい」。森村が非凡でないことは展示を見ればわかることだが、試行錯誤し葛藤する森村の過去の作品に自分自身を投影してしまう。森村は真似て学べ!と伝えたいわけではない。美術家を志す全ての人にみてもらいたい展示であった。

豊田市美術館で見逃した私は静岡市美術館へ。さらに見逃した方は、北九州市美術館(2012年7月28日(土)~ 9月2日(日))へ。

名古屋シネマテークにて上映予定の気になる映画


☆『ベルフラワー 』6月23日(土)〜6月29日(金)
一言メモ:『マッドマックス2』が好きならとりあえず鑑賞するべし
オフィシャルサイト

ベルフラワー.jpeg

☆『誰も知らない基地のこと』6月23日(土)〜7月6日(金)
一言メモ:米軍基地のある三沢市で育った私は、みておかなければならない。

誰も知らない基地のこと.png

☆『世界最古の洞窟壁画 35mm 忘れられた夢の記憶』
6月16日(土)〜6月29日(金)
一言メモ:ヴェルナー・ヘルツォーク監督のイメージは『小人の饗宴 』

世界最古の洞窟壁画 35mm 忘れられた夢の記憶.jpeg

初めまして。広瀬さん( visknowの紹介によりこちらでお世話になることになりました、佐藤匡将(さとうまさのぶ)です。
美術館に行った感想や映画の感想を中心に生活の一部を文章に書き記し、共有できる場所に保存しておくことにこの場を利用していくことになるはずです。最後に自己紹介を兼ねて私が行なっている活動について簡単に説明させて頂きます。

参加型フリーマガジンについて

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◎ about

企業が広告費を払い発刊される形を20世紀型の出版スタイル、個人が広告費を払い個人の手によって発刊される形を21世紀型の出版スタイルと定義し、参加者が参加費(個人広告)を出し、雑誌が発刊される形を目指す参加型フリーマガジンです。発刊ペースは3ヶ月に一度です。その都度作品と参加費を集め製作し、愛知、京都、東京にあるカフェや雑貨屋、ギャラリーを中心に1,000部設置しています。


◎ 個人の広告

広告という言葉は「広く一般に告げ知らせる」という意味を持っているようです。私たちが普段目にする広告は、会社のイメージや商品を特定の層に伝える(広く告げ知らせる)手段として活用されています。一方、「ある層」でも「誰かに」でもなく、「あの人に」というような特定の人に見て欲しくて出された広告を『超』個人の広告と呼ぶことにします。自分の作品が掲載された雑誌を見せたい相手にプレゼントするなどして活用して頂きたいと考えています。フリーマガジンである以上、外の目を意識して制作していますが発刊部数が1,000部と限定しているため、外に広がることを第一の目的とせず、外に向かうポーズをとりながら内へと向かうツールとして活用すべきだと認識しています。



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