MASANOBU SATO
OoooO Editor
佐藤 匡将(さとう まさのぶ) 1987/08/17 Type O
参加型フリーマガジン[OoooO] 編集・発行人。

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お盆休みで街はにぎやか。
なにかそれっぽいことを!!と思い、
ミッドランドスクエアシネマで
「おおかみこどもの雨と雪」を見てきた。

シネコン系の映画をみることは、
私にとってはお盆休みっぽいこと。


<おおかみこどもの雨と雪>
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友達と語り合った感想は「よかったよね」の一言。
一言だけど2人の声は小さく震えていたんだよ。

母の強さと優しさにグッときながらも
子どもの成長に寂しさを感じ、
あぁ、僕も随分と大人になったのだな、
としみじみしながら親を想った。

そう言えば一週間ほど前
着信履歴に父の名前があったな。
その日の深夜にかけなおすとお母さんが出て、
もうお父さん寝ちゃったよー、と。
お盆帰ってくるのかどうか聞きたくてかけたんだよ、
ってさ。
お父さんお母さん、9月にはきっと帰るからね。

個人的に宮﨑あおいが声優をやった花の声が
ねっとり甘ったるくて好きになれなかった。
花の声を聞く度に宮﨑あおいの顔が脳裏に。。。
顔の知らない人が声優をしてくれた方が見やすい。

映画のエンディング曲がよかった。
高木正勝の音楽もよかった。

でもね「るるるの歌」もいいんだよ。
まだ見てない人は、
「るるるの歌」を聞いて
この映画への想いを募らせて欲しい。


<るるるの歌>


<おおかみこどもの雨と雪 ED曲>
 
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韓国に脱北してきたおかっぱ頭のスンチョルは、その経歴のせいで差別されていた。ちゃんとした仕事にもつけず違法のポスター張りの仕事をしていた。不器用なためか貼ったはずのポスターが直ぐに剥がれてしまうことが続き社長からはクビだと言われるが、スンチョルは頑張ると言い通す。同じようにポスター張りを仕事とする男からは、おれの場所でポスター貼ってるんじゃねーっと、殴られ蹴られ、同居人に買ってもらったナイキのダウンをカッターで切られてしまう。こんな時でも、どんな時でもスンチョルは反抗したり殴り返したりしない。

教会には熱心に通うスンチョル。聖歌を歌う女性が気になるが、話しかけられるわけもなく横目でその姿を追いかけるだけ。ある時、彼女が働いている場所をみつけ、バイト募集のチラシを発見し、一緒に働き会話が出来るようになる。しかし、同じ教会に行っていることが知れると、ここで働いていることを人には言うな、教会では話しかけるなと、冷たい態度をとられ嫌われ、友達にすらなれない。道で拾った白い犬がスンチョルの唯一の友達だ。こんなスンチョルがあるひとつの行いで変わる。

罪の告白である。

スンチョルは自分が犯した罪を神の前で告白し、赦されたのだ。

私はこの映画をみて、園子温監督の「愛のむきだし」を思い出した。神父様を父に持つ高校生のユウは、毎晩ご飯を食べる前に今日犯した罪を懺悔するように言われる。しかし、悪いことをしていないため懺悔することができなく、いつも父に怒鳴られていた。そこで懺悔するために悪いことをしなければと思い立ち、盗撮を始める。そんなユウはマリア(聖母)様と結婚することを夢見ており、ある日、こいつだ!!と思う女性に出会う。ヨーコだ。しかしヨーコは怪しい新興宗教にのめり込んでいく。そんなヨーコを救出するために砂浜に捨てられていた廃バスの中に監禁をする。そこで説得を試みるも、一向にユウの気持ちは伝わらず挙げ句の果てに逃げられそうになり、砂浜で取っ組み合うもヨーコに馬乗りになられたユウはひとつの質問をされる。「お前はコリント書第13章を知っているか?」。このコリント書第13章の最後は、以下のように終わる。

引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この3つ
このうちもっとも優れているのは、愛

孤独は私たち誰もが持っているはずだし、人(神)を信じて自分の罪を言葉にして聞いてもらい許(赦)してもらうことができれば、自分で自分を受け入れられるようになる気がする。ただ、犯した罪を告白するのは簡単ではない。だからこそ、何かを変えたい時、罪を告白することがその何かを変える手段になり得る!と私は思った。

もちろん愛のむきだしでは、もっとも優れているのは愛であっただろうと思うが、ムサン日記では、もっとも優れていたのは希望であったように思う。



<ムサン日記〜白い犬>

<愛のむきだし>





<コリント書第13章>



たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても
愛がなければ、私は鳴るドラ、響くシンバル
たとえ、預言の賜があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
愛がなければ、私は何者でもない
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、賞賛を受けるため自分の身を引き渡しても、
愛がなければ私には何の益にもならない
愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は妬まず高ぶらず誇らない
見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない
愛は決して滅び去ることはない
預言の賜なら廃りもしよう、不思議な言葉ならやみもしよう、知識ならば無用となりもしよう
我々が知るのは一部分、また預言するのも一部分であるがゆえに、
完全なものが到来するときには部分的なものは廃れ去る
私は幼い子どもであった時、幼い子どものように語り、幼い子どものように考え、幼い子どものように思いを巡らした
ただ、一人前の者になったとき、幼い子どものことはやめにした
我々が今見ているのは、ぼんやりと鏡に映っているもの
その時に見るのは、顔と顔を合わせてのもの
私が今知っているのは一部分
その時には、自分がすでに完全に知られているように、私は完全に知るようになる
だから、引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この3つ
このうちもっとも優れているのは、愛



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いちご白書という映画は、軍事施設を建てる工事のため公園をなくすという決定に、公園の近くにある大学の在学生が中心となってデモを行い、工事を中止しろと学校をほとんど占拠してしまうなか、活動グループのメンバーである女性に恋をした主人公は、最初こそ興味がなかったデモに参加していき、、、というような話の青春社会派映画であったと私は思う。

この映画の最後のシーンでは、体育館に立てこもり人々が何重にも円陣をつくり体育館を埋め尽くしていた。一番外側の円をつくるために80人以上が手をつないでいたように思う。円陣を組んだ人々は両ひざをつき、ダッ、ダッ、っと両手で床を叩きながらゆっくりと一定のリズムをならし、それがまとまりをもってひとつの音となり、大きくあけられた大勢の口からは、ひとつのフレーズが発せられた。

「All we are saying is give peace a chance」「みんなで叫ぼう、平和を我々に」

このフレーズが繰り返しリズムと共に体育館に響きわたる。その声は天井まで届き反響し、外へ出て行った。外では100人はいるであろう警察官が突撃の合図を万全の準備で待っている。学校長が立てこもる学生に対して拡声器を使って最後の警告をする。野次馬がそれを見守る。怒鳴るようにでもわめくようにでもなく、親しい友人に呼びかけるような声がうっすらと体育館から漏れて外まで聞こえている。

「All we are saying is give peace a chance」「みんなで叫ぼう、平和を我々に」

学校長は2分も話しただろうか、その最後の警告を終えた数分後、1人の合図をもって体育館に警察官がなだれ込む。白煙をたかれ、ゴホゴホとむせながらも体を丸くして呼びかける人々を警察官は蹴散らしていった。円陣は瞬く間にぐちゃぐちゃにされ、抵抗をすれば殴られ、しなくても殴られた。呼びかける人々の数はどんどん減っていったが、その声は聞こえ続けた。

「All we are saying is give peace a chance」「みんなで叫ぼう、平和を我々に」

ジョンレノンがベトナム戦争に対する反戦歌・平和のメッセージソングとしてつくった『Give Peace a Chance』が大勢で歌われるこのシーンが心に焼き付いている。

さてさて、スチャダラパーの原発反対ソングを最近になって聞いた。その原曲となっているのは映画「ゴジラ対ヘドラ」の主題歌『かえせ!太陽を』だそうだ。高度成長期の1950〜60年代に表面化した公害問題(水俣病は1956,四日市ぜんそくは1960〜72)を取り扱った作品であり、71年に公開されている。替え歌や過去に制作された作品ではなく、原発反対とみんなが行動を起こしたこの時代に生まれたみんなで叫ぶ(All we are saying ことになるフレーズはなんなんのだろう。

<いちご白書>(最初の方にgive peace a chanceを歌う声が聞こえる。)
  

<give peace a chance> 
 

<かえせ太陽を> 
 

<Human Error> 







<いちご白書>

<wiki:日本の学生運動>

<wiki:スチューデント・パワー>

<wiki:デモ活動>

<かえせ太陽を>

<ゴジラ対ヘドラ解説>

<wiki:ゴジラ対ヘドラ>

<wiki:公害>

<水俣病>

<四日市ぜんそく>

<原発反対ソング>

<原発反対ラップ編>

Frying Dutchman

作家である谷崎潤一郎のエッセイ『陰影礼賛』を読んだことがある。節電ムードになった際に、改めて読み返され再評価されていたのは記憶に新しい。陰翳礼賛?なんだよその漢字?読めない。ということからその漢字の意味を調べたことがある。【陰翳】(いんえい)1 光の当たらない、暗い部分。かげ。【礼賛】(らいさん)1 すばらしいものとして、ほめたたえること。また、ありがたく思うこと。

西洋の女性はプロボーションの良さから見る美しさがあり、日本の女性は肌のきめの細さから触る良さがある、という話があったように思う。日本では大正時代まで夜ばいの文化があったようで、なにも見えない暗闇の中で行為におよんだという話などを紹介しながら、暗闇の中の月夜でみえるその女性の肌の陰翳の美しさといったら、、というようなことが谷崎らしく(変態だと思われる作品が多い)かかれ礼賛されていた。余談だが、ヤフー知恵袋で「夜ばい制度について」教えて!という質問のベストアンサーにこんな書き込みがあった。「夜這いが上手になると、暗闇で何も見えなくても息や匂で両親・姉・妹を区別できた。」マーベラス!!

最後に、KIRI(REVOLVERデザイナー)が紹介していたFrench Montana(フレンチモンタナ)の『POP THAT』という曲のPVを見て欲しい。西洋の女性の美しさがここで確認できる。

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<wiki:陰翳礼賛>
<wiki:夜ばい>
ヤフー知恵袋:夜ばい
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1324671463
<French Montana(フレンチモンタナ)>
beru.jpegのサムネール画像
ベルフラワーのチラシにはこうある。「もうダメだ、女は信じられない ― 。」裏面にはさらにもう一言。「焼き殺したいほど、愛していた。」と。

『映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで』『〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀』『トラウマ映画館』などの著書を出している映画評論家である町山智浩はこのようなコメントを寄せていた。「マッドマックス2の世界を待ち望んで戦闘マシーンを作る無職のボンクラ・・・・・・って他人事に思えん!切ない恋が暴走するバイオレンスなカオス!それを受け止める友情に泣け!」

いざみてみると、なんてことはない、なんてことはないなんてもんじゃない。カルト映画だよこれ。これはカルト映画だ。これをカルト映画と言うのだ。(佐藤匡将)

今までは、上記に挙げたような書籍をもってして既にカルト映画とある種、認定された作品をDVDを借りてきては鑑賞していた。ただ今回は違う。スクリーンでリアルタイムで上映されているカルト映画に出会ったのだ。

そもそもカルト映画とはどういう定義付けがなされているのか?カルト映画ってなに?ウィキペディアによるとこうだ。「ある種のジャンル・テーマ・モチーフ・演出方法等による分類方法ではなく、その作品が"特定の観客にどのように受け入れられているか"、という現象面によって分類されるべき映画である。当然、厳密な分類は期待できず、また、定義自体が変わらなくても時代や社会によって、その外延は変化する。 ある映画がカルト映画として成立していく条件は、特定の観客がその映画をどう受け止めるか、その映画に対しどのような関係を築いていくかに依っている(商業的な成績は関係ないが、一般に「狭く深い熱烈なファンをもつ作品」であることから、あまり成功してはいないことが多い)。」

つまり上映されたばかりのこの作品をカルト映画だと言ってしまうのは可笑しいことになるのだが、これはカルト映画に違いない!と私は思っている。観賞後の私といえば、呆れて愕然とし、真剣にこの映画を制作した方々に敬意を込めて拍手をしながらもくだらなさに戦慄した。そんな体験ができた。







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